昭和44年01月09日 朝の御理解
御理解 第94節
「信者に不同の扱いをすな、ものを余計に持って来るとそれを大切にするような事ではならぬ、信心の篤いのが真の信者じゃ」
これは、取次者教師に対する御理解と思います。皆さんも金光教の教師になったつもりで聞いて頂きたい、信者に不同の扱いをすなと言う事、これは商売人であるならばお客さんに不同の扱いをすなとも頂けます。ここで思わせて頂きます事は、先生もやはり人間ですから先生から大切にされるように、お供えもでき御用もできるようにならにゃといかん思うのです、やはりその人の信心に打ち込んでおる程度がお参りにあらわれたり、お供えに表れたり、やはり形に表れるのですから、先生はそれを大事にする。
ですから信者の側としては大事にされる位の信心を頂かにゃと思う。行き届いた信心とはそういう信心だと思う。最後に「信心の篤いのが、真の信者じゃ」というておられます。いわば信心が篤いと云うことは、どういう事かというと篤信と申します。そんなら私共が知っておる篤信の信者の方はどういう信心をしておるかというと、やはり一生懸命に教会にお参りをしとる。それこそ自分は食べんでも神様にお供えをしとる。
篤信の信者というたら、もう神様事というたら、ちったあの人はぼうけちゃなかろうかと言う程に一にも神様、二にも神様、三にも神様と云うほどに熱心なのが篤信の信者である。そうなれば自然先生からも大事にされますよね、信心の篤いのが真の信者じゃと、どんなに性格的に立派なものを持っておってもお参りもできなければ御用もできない。これでは大事にされようもないし、また認められる筈もないと思うのです。
そこで私は思うのですが本当に私共は神様に認められる前にまず先生に認められねばならない。先生は一生懸命お参りしてくることによって、この人は熱心な人だなあと思う。御用ができればこの人は熱心だと思う、まず、篤信と言うならば信心の篤いのが真の信者じゃとおっしゃるが形の上においても篤信ぶりを発揮せねばならんと思う。そこで神様の心を持ってすればですね、不同の扱いをすなとおっしゃってるのにせんせいが不同の扱いをすることによって、それは先生がおかげを落とす事であって。
皆さんにはそれは係り合いがない、先生に大事にされたから皆さんがおかげを落とすと云うことじゃない、先生がおかげを落とすのであるから皆さんは一途に一生懸命お参りせにゃならん、御用させて頂かなならん。「信心の篤いのが真の信者じゃ」、そこで形の上において手厚い信心をする行き届いた信心をする。一生懸命のお参り、または御用を頂く事によって、いわゆる形の上に於いての篤信ぶりが発揮されてくると、そこからどう言う事になって来るかというと。
神様が大事にされる氏子、大事にされない氏子のひらきが、そこから生まれてくると思うのです。先生には不同の扱いをすなというてあるが神様自身もやはり、不同の扱いをなさる。それには先ず先生が、おかげを落とす位な、先生があの信者はと目をつけ、不同の扱いをする位な、形のうえに於いての信心を、お互いがさせて頂いて、その辺から私は神様に不同の扱いをされる。神様が目を衝けて下さる。本当の目に見えない篤信というのは、その辺から出来てくると思う。
これは自分でも分る、神様が特別可愛がって下さってあるんだなあ、これは神様が私を特別に鍛えて下さってあるんだなあと自分でも感ずる。この辺から目に見えない篤信、信心の手厚い信心というのが出来て来る。形の上に於いての篤信時代、先生とても人間だから、不同の扱いをする。それは不同の扱いをした先生がおかげを落とすだけだから、皆さんには関係がない。先生とても人間だから、先生の気にいる様な先生が認めて下さる様な先生に可愛がられる様な信心をさせて頂かねばいかんこれは信者の側ですよ。
そこで先生が目を付け、先生が大事にする。一生懸命のそうした形の上での打ち込みが、なさらなければいけない。先生に不同の扱いをされるくらいの信者にならにゃいけん、そこから、神様があの氏子はと目をつけ、不同の扱いをして下さる様になる。不同とは「変わった扱い」をして下さる。特別に可愛がって下さる事が自分でも感じられる。「信心の篤いのが真の信者や」と、本当の意味での信心が手厚くなる。
それをどういう様な時代に感ずるか、これは私の信者時代の事をお話しますと、もう本当に私は、三井教会では終戦引き揚げてこの方というもの、もう本当に親先生だけでなく、家族の方達からも、大坪さんは、篤信の信者じゃといわれ、思われとったと思うのです。ですからやはり、その特別の扱いを受けておったと思うのです。大坪さんはもう親戚のうちと云うて頂いとりましたし、御用すれば喜んで頂けるもんで、いよいよ打ち込んでの御用をさせて頂きました。
まあ言うならば、親先生は、私に不同の扱いをなさったわけですねえ。けれどもです、私は今から考えてみますと、あの時分に神様は、私に白羽の矢を立てなさったと思うのです。ですから、この辺のところが、私は少し違うとったと、自分でも思います。段々一生懸命になればなる程、今度は商売の方は反対の方になる様になった。いわば商売が出来ん様になってきた。ところがです信心に打ち込むと言う事の喜びを段々分かってきた。打ち込むと言う事が有難い。
いわゆる心の上に、有難いというものを感じられる様になってきた。借金は山のように出来るようになってきた。受けておった信用まで、落とすような事になっていった。ところがその頃から私は、自分の心に感じておった事は、これはいよいよ神様の御都合に違いないと言う事。それはどういう事かというと、『特別神様が、私を可愛がって下さっておるなあ』という感じであった。ですから皆さん、神様が不同の扱いをなさる様になる。そこのところからです、本当の意味での篤信と云われる様になるのは、そこのところからだと思うのです。
これは神様が私に、特別の願いをかけられておるなと言う様な事が感じられる。これは、いいや私でなければ出来ないと言う事である。神様から特別に可愛がられるなと言う事は、どう言う事かというとです、本当に修行が自分は修行しようと思わんでも、神様が次々と修行を求め給うと言う事です。これは神様が可愛がって下さる、いわば始まりです。これは私のいきかたですけれども、私もやはり一生懸命お参りしてくる、御用も出来る人、それは矢張り大事にしようごとある。
そこで私は極端ですけれども、そこんところを反対にするのです。皆さんここで大事にされる人は信心の出来よらんとですよ、私は反対ですからいうなら信心が出来てないから甘やかされているのです。本当に信心が出来ている人は決して私は甘い教導はしていないと思っている。本当の信心も出来ん御用も出来ん、そういう人を私は大事にします、ですから大事にされよると思ったらそれは信心が出来ていないと思うて間違いない。
ここんにきで、信心が篤信にならんなりにしまえてしまう人が多いのです。あれだけ一生懸命御用の出来とる時には、先生が大事にしておって下さったけれども、もう御用も出来んごとなったら、先生があんまりうてあいなさらんごとなった。これだけ信心をするのにと云う心が起こってくると、そこから、信心を落としていく。信心をやめたりしていく。その辺に特に神様がいよいよ不同の扱いをしておって下さると思われる程にです。心に神様の願いが響いてくる様な、信心をひとつさして頂きたい。
これはいつも私がお話を致します様に、いよいよ商売をやめて、神様のいろいろとお知らせを下さる通りに動いておった時代の事です。借金は山ほど有る。だからその借金のことわりにさるかにゃいけん。福岡に松枝さんという人に相当の借金があった。その借金を返しには行けんから、ことわりに行かにゃいかん。それ、五回、十回の間は、「まあよかよか」というて貰いよったけれども、それが十回、二十回ともなってくると、「もういよいよ大坪さん、あんたも見そこのうた」と言われる様になってきた。
もう終いには私の顔見たら、又すらごつ言いに来たじゃろうと言われよった。それでも神様はことわりに行けと言われる。それで後十日待って下さい、十五日待って下さいと言う。十五日が来ると又、ことわりに行く。なる程向こうの方が、又すらごつ言いに来たじゃろうと言われる筈であった。そげんなってくるとですね、もうその家に入られんですよ。又あの人の顔を見らんならんと思うたら、もう家の前迄行ったら、足がぴたっと止まってしまう。
家の回りをぐるぐる廻りよって、勢いで入らして頂こうと思うけれども、なかなか入られん。それでもやはり入らして頂いて実意を込めてことわりを言うけれども、もうそれこそ、うてあいもなあんも致しません。「もういよいよあんたばっかりは見そこのうたと、あんたが商売でも、じゃんじゃん出来る時には、もう本当に、いうなら、良い商売人である。この人は見所があると思いよったけれども、もうあんたつまらんばい。もうことわり来んでよか。
もうあんたにやろう」と言う様なえげつない事を言われよった。それでもやはりことわりに行った。そう言う事が続いておる時でした。いよいよ今日が又断わりに行かなん日でした。大城の停留所にやらして頂いたら、電車はもう行った後である。そこに善導寺の小川さんという桶屋さんがおられた。その時電車を待ちながらの、よもやま話の中にです。「昨日、大坪さん。私は御井町に横綱輝国が来たので見に行った。それはもうちょいと相撲取りの弟子にどんするもんじゃなかですよ。」と言うお話であった。
「それはもう、投げること投げること、親どんが見られることじゃなか。土俵の上で、もう叩いて叩いて叩きあげて、もうはいも立ちも出来ん事なっとっても又、それを捕まえて投げつける。」と云う様な話を私にして下さった。その時それがそれこそ神の声として私に響いて来た。私はもう本当に重い足を引きずる様にして、借金の断わりに行きよる。そこにです、その人が、そんな話をしてくれた時にです、私は思うた。
私こそ、いよいよ土俵の上で、それこそ打ったり叩かれたり、もうはいも立ちも出来んごたるとを、もうどげん思うても今日は行かれない。もうどげん思うても行かれん。いわゆる、もうごそごそ土俵の外に逃げだしておる様なものである。それでも、又私を引き上げ取って、私を鍛えて下さってある訳なんです。ところが不思議ですね。もうその話を聞かせて頂いたら、とてもその見込みのなかとをそんなに稽古をつけるはずはなか。これは大坪総一郎でなからな出来ぬ事があるぞ。
きっと末は大関か横綱のおかげを頂かせて下さる為に、神様が今鍛えて下さっておるんだと。いわゆる可愛がって下さっておるんだと。分からして頂いたら、どこから湧いて来るか分からん位な有難いものが湧いてきた。元気な心が。もうそれこそ気も軽々と、その時ばっかりはにこにことして、その断わりにやらして頂いたもんでした。そしたらその日は違うとです。向こうも違うのです。そして今迄通りの話をさして頂いたら「もう、大坪さん心配せんでよかが。
もうあんたが出来る時払うてくれたらよかが。」と言うて下さった。そういう様な時私が感じた事は、もういよいよ神様が私を愛しておって下さる。私を可愛がっておって下さる。これは大坪総一郎でなからにゃ出来んことがあるなと。私は神様が思うておって下さると感じた。ですからその苦労と言う事が、その修行と言う事が、もういよいよ有難うなってきた。私は本当の意味での「信心が篤いのは」とおしゃるのは、その頃から篤い信者心になるのじゃないだろうかと思う。
そこを通り抜けさして頂いたところからです、神様が私を愛しておって下さるしるしを見せて下さる様になってきた。第一天地が私の為に動いて下さる様になってきた。どんなに雨が降りよろうが、嵐がありよろうが、私が出るとなったらスカーッとようなる様になってきた。例えば上滝さん方にお話に行った時、もう夏の炎天暑い盛りであった。椛目から中島まで歩かせて頂く。
その歩かせて頂く間、ずうっと雲が私を守ってくれる様に、日陰を作って下さった事があった。後ろから御湿りがあってきよる。私のほんな後ろまで雨がじゃんじゃん降りよる。私が歩いて行くだけ降ってくる。家へ着かせて頂くと同時にザーッと雨になった。という程にはっきりしたもんであった。お金はまあだ無かった。物は無かったけれどもね、天地が私を愛しておって下さる。特別の不同の扱いをしござる訳です。
それ以後でした、人が助かるようになってきたのは。私の言うた事に神様がそれを裏付けして下さる。椛目に椛目にと言うて、門前市をなす様に人が集まってきだした。一年後には大祭を二回に分けなければ、あの狭いお広前では大祭が仕えられんごとなってきた。私はその辺からです、『信心の篤いのが真の信者じゃ。』と仰るのは、そういう例えば難儀なら難儀の中に神様の愛を感じられる。特別に神様が取り扱っておって下さることを感じられる。
これは私でなければというものを、神様が感じて下さっておるしるしを、感じれる様になるところから、私は真の信者と言う事がいえ、又篤信といわれるのは、神様から篤信として取り扱うてもらえるのは、その頃からだと思う。だからそれ以前の事は無駄のようにもあるけれどもです、先生があの信者は熱心な信者だと思われる位な所を通らねばだめだと言う事。ようそんな信心が出来ますね、というて先生が人間心を使われる位な信心を頂かねば駄目です。
その先にある、神様が認めて下さる信心、それは信心の篤いのが真の信者じゃと仰る。その真の信者をめざさしてもらう。そこでここに、信心の篤いのが真の信者じゃと仰るが。こうやって一生懸命お参りさせて頂いとるけれども。真の信者にならして頂こうという、まず願いをもたんなら、今日のご理解は、なあにもならんです。私共がなんと要ってもまず真の信者にならして頂こうという願いを立てて、そこからおかげを受けて行かなければ、ならないと思います。
真の信心を頂くためには、一にも神様、二にも神様、三にも神様と言う様なです、お参り御用全ての上に於て、言うならば、自分を中心にした信心ではなくてです、どこまでもおひろまえが中心、神様が中心、親先生の思いが中心、そういう信心を目指さなければいけない。その向こうにです、神様が特別に取り扱って下さる様な信心。その辺からいわゆる手厚い信者と仰るいわゆる篤信と云われる。のはその神様との交流がです、難儀な中にでも、神様が鍛うておって下さるんだ。
こげんして自分を鍛うて下さるんだと感じられる位な、信心にならして頂く所から、私は篤信の信者と云えるのじゃないかと思う。そして神様が本当に取り扱って下さる、もう人間扱いはなさらない、いうならば神様扱いにしてくださる程に、おかげの頂ける道なのです。ですからまず皆さんの願いが、どうぞ真の信心をわからして下さい、為にどうぞ篤信にならして下さいという願いがなされなきゃいけんと思うのです。
どうぞ。